インド哲学は、古代インドに起源をもつ哲学の総称です。
様々な学派があり、その中でも特に、バラモン教の聖典ヴェーダに収録されているウパニシャッドを受け継いで発展した6つの学派が知られています。
- サーンキヤ学派
- ヨーガ学派
- ヴェーダーンタ学派
- ミーマンサー学派
- ニヤーヤ学派
- ヴァイシェーシカ学派
これらは一般的に、まとめて六派哲学と呼ばれています。
「梵我一如」をめぐって
ウパニシャッドとは、サンスクリット語で「奥義」や「秘伝書」を意味する一連の書物のことを指しています(なので『ウパニシャッド』という名前の著作があるわけではありません)。全部で200以上の著作がウパニシャッドのなかに含まれています。
テーマは多岐にわたりますが、中心の概念はブラフマン(梵)とアートマン(我)の2つです。自分のうちに潜むアートマンを知ることによって宇宙の最高原理であるブラフマンと合一できるという、いわゆる「梵我一如」の思想がウパニシャッドの根本にあります。六派哲学も基本的にはこの「梵我一如」をめぐって議論を繰り広げています。
生は苦しみである → そこからどう解脱するか?
それぞれ論じ方は異なりますが、基本的にどの学派も、生=苦であり、その苦を解消するために解脱が必要だという出発点から、「いかにして解脱は可能か?」という問題に取り組んでいます。
たとえばサーンキヤ学派は、意識が世界のありようを完全に見て取れば、それで解脱が起こると主張します。その一方で、ヴェーダーンタ学派のシャンカラは、梵我一如が初めから達成されている(私たちはそもそもブラフマンと合一している)ということを認識することが、解脱のための条件であると指摘しています。また、ヴェーダーンタ学派のラーマーヌジャは、そもそも認識ではなく最高神への帰依こそが解脱に必要なのだと主張しています。
このように対照的な世界観が立ち並んではいますが、ともに業と輪廻から解脱することを目がけている点で、それらは同じ土俵の上にあると言うことができます。
また、仏教はインド哲学と密接な関係にあるバラモン教から生まれてきましたが、それはバラモン教が梵我一如を中心に据えるかぎり必然的に辿らざるをえない運命だったといえます。アートマンを人間の本質とみなすバラモン教が、その内部で世俗における階級の区別を維持しなければならない理由は存在しないからです。
「真」をめぐる様々な思想
興味深いのは、ミーマンサー学派のように、儀礼・祭式によって現世や来世の幸福が得られると考え、解脱をほとんど重視しなかった学派もあったことです。形式主義ゆえに最速で没落したようですが、そうした考え方も許容されるほどに「真」を求める思想の自由が当時のインドの社会に存在していたことを物語っているように思います。
とはいえ、どうしてもウパニシャッドに比べると、六派哲学では議論の比重が「苦」をどう処するかについて純粋に考える態度から、他説に対して自説の正しさを証明することへと移ってしまっている感は否めません。
ほかにも、興味深いことに、インド哲学のうちで生=苦という前提が覆されることはありませんでした。ブッダと同時代のチャールヴァーカのように、唯物論・快楽至上主義の思想が散発的に現れることもありましたが、それがメインストリームになることはありませんでした。
生は苦と喜びの両方を与える
素朴に考えても、世界と宥和的で、家族や社会のうちでそれなりに自分のありようを納得している人が哲学に向かう動機を持つことはなかなか無いので、生を苦と見なすことが単なる思いつきでないことは明らかです。
しかし生それ自体が苦であるという命題は、肯定するひともいれば否定するひともいるような性質のものです。生は私たちに苦を与えることもあれば、喜びを与えることもあります。このことはおそらく誰でも納得できるはずです。
なので哲学的には、「どのような条件のもとで私たちは苦しみを確信し、それに対処しようとするのだろうか?」という方向へと展開すると、インド哲学の問いをより掘り下げ、かつ現代に生かしなおすことができると思います。おそらく人生のうちで苦しみをまったく感じないようなひとはいないでしょうし、そうした問いであれば、業と輪廻の観念が一般性をもたないような文化や時代においても共有できるはずだからです。
主な著書
ごく一例に過ぎませんが、代表的な著作としては以下のものがあります。
- サーンキヤ学派 —— イーシュヴァラクリシュナ『古典サーンキヤ体系概説』
- ヨーガ学派 —— パタンジャリ『ヨーガ根本聖典』
- ヴェーダーンタ学派 —— シャンカラ『不二一元論』、ラーマーヌジャ『最高神とその様態』
- ニヤーヤ学派 —— ヴァーツャーヤナ『論証学綱要書の注解』(『論証学入門』と訳されることもある)
- ヴァイシェーシカ学派 —— カナーダ『ヴァイシェーシカ・スートラ』
- Dirk Hagen (CC BY-NC 2.0; modified)
- PhoTones (CC BY-SA 2.0; modified)
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